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第1章「アルバイト」

「おーい、誰かおらんか」

店内に大きく低い声が響いた。

 陳列作業をしていた僕はすぐに手を止めレジカウンターに小走りで向かった。

作業着姿のその客は不機嫌そうに雑誌、弁当の入った買い物カゴを乱暴にカウンターの上にのせた。僕はその客のその不機嫌な横顔を横目に横切り、レジカウンターの中へ入り、作業着の強烈な汗の臭いに顔を歪めることなく淡々と、一連のレジ業務をこなした。お会計をその客につげると、これまた乱暴にお金をレジカウンターの上に置いた、というよりは投げ捨てた。僕はその男のその汗水流した結晶を拾い集め勘定し、レジ入力をし、これ以上にないぐらいの笑顔でお釣りをその大きく黒ずんだ手に手渡した。その手は凄い勢いでお釣をもぎ取り、乱暴にポケットに引っ込んだ。僕はとっさに小さい頃に見た大蛇を連想した。

 疲れる…うんざりだ。

 その男とすれ違いざまに甘い匂いと共に店内に入ってきたのは学生アルバイトのひとみさんだった。自分でもびっくりするぐらいに気分が昂った。多分、視覚というよりは嗅覚を通じてそう感じてしまったんじゃないだろうか。

 ひとみさんが僕の前を通り過ぎる瞬間にちらりと走らせた視線は笑うでもなく、愛想があるものでもないのだが、僕にとっては感慨深い横顔だった。

 今日は久しぶりにひとみさんと一緒に働くことができる、それだけで世界中の誰よりも自分が幸せであるかのような感覚に陥ってしまう自分が好きな一方、それ以上にひとみさんの右手薬指に光り輝く輪っかが僕の昂る気持ちをなぜか萎えさせ、不完全燃焼なまま佇む情けない自分の姿が大嫌いでもあった。

「シンくん、今日もよろしくね」

「あっ、はい」

ひとみさんが店のユニホームの襟を直しつつ、いつもの挨拶を交わしてきた。

 ひとみさんは近くの音大に通う大学生だ。バイト仲間ではあるのだが、僕がバイトを始めて日が浅いためか、ひとみさんに関する情報はたったそれだけだ。きっといるであろう彼氏の話や大学で何をやっているだとかは、妄想だけが膨らむだけで、全く想像もつかないのが現状である。これではたまたま街ですれ違った人となんらかわらないような状態だ。

 なんとかして仲良くなりたいと思う反面、僕なんか相手にされないんだろうなあとうい諦めの色が濃かった。

 ひとみさんの勤務時間は夜の9時から12時までで週に2、3日の勤務だ。通常、女の子の勤務時間は遅くても夜の9時までらしいが、ひとみさんは楽器のレッスン等の関係で特別に夜の9時から12時まで働いているらしい。

 店にはひとみさんの他にも働く女の子たちはいるにはいるが、僕が店に来るのと同時ぐらいに仕事を終えて帰ってしまう。時には店のユニホームから綺麗で魅力的な姿に変貌し、携帯電話に向かって愉しげにお喋りをして、レジカウンターの前をそそくさと通り過ぎて帰ってしまう。目が合えば一瞬、気まずそうに真顔になり、しるし程度にお疲れさまの会釈をする。僕は羨望の眼差しで彼女たちを見つめるのと同時に漠然とした嫉妬を感じられずにはいられなかった。

 その点、ひとみさんとは好むと好まざるとにかかわらず関係なく接点があるし、さらにひとみさんの容姿が僕のタイプでもあることで僕の中ではひとみさんが特別な存在に映っている。

 ただ、ひとみさんとの接点はあるものの、働き始めて間が無い僕には当然、女の子にうつつを抜かす余裕があるわけも無く、刻々と時間は過ぎてしまう。

 あっ、そう、自己紹介が遅れましたが、僕の名前はシンくんこと横井慎人です。歳は19。去年、地元の私立高校を卒業し、就職、進学はせずに何となくこの4月からこの街に一人暮しを始めました。別にやりたい事があるわけではなく、口うるさい両親の元から逃げるようなかたちで始まってしまった一人暮らしだけど、今はこうして小さな恋心が芽生えてすごく充実している日々を送っています。

 

「お先にに失礼しまーす」

「お疲れ様です」

「ガンバってね」

気がつけばあっという間の3時間。まだまだ仕事に慣れてないせいもあって、疲れは酷い。ひょっとしたら昨夜一人で飲んだ慣れないビールの二日酔い?

 ただ、この場を乗り切る方法があるとするならば、月末に自分の口座に振り込まれるであろう時給のことを考えるしかなかった。

 

「ういっす」

ひとみさんと入れ代わったヒゲ面の男子学生がそう声を掛けてきた。

「あっ、どうも。よろしくお願いします」

「堅いな〜、夜勤だし、疲れるから適当にやろうぜ」

「はぁ〜」

ヒゲ面はあきれてというよりも、端っから僕とコミュニケーションをとるつもりではなかったのではないかと思う程、素っ気無く自分のこなさなくてはならない作業をし始めた。

 明け方、僕が雑誌の検品の仕方をどうやって処理していいかを戸惑っていると、雰囲気を察知してかヒゲ面が僕の横に来て、端的にしかも分かりやすく検品の仕方を教えてくれた。僕はヒゲ面に対してヒゲ面と勝手に命名して、心の中だけでそう呼び捨てていた事に対して、とても後ろめたい気分になった。

 ヒゲ面こと城多門。彼は近所の大学に通う大学生らしいが、見た目からは決して学生の放つ初々しさや若々さを感じられなく、危うくアウトローでヒリヒリとした雰囲気をもっていた。ただ、女の子にはモテるんじゃないだろうかと僕の直感がそう告げた。

 店の窓ガラスから見える殺風景が徐々にその姿を露にし、行き交う車、人の通りが増える頃、オーナーの川村さんが朝特有の油っけのない顔で店にあらわれた。僕たちは一仕事を終え、帰路につく。

 夜勤をやった後は決まって胃の当たりが気持ち悪い。やっぱり人間は朝起きて、昼仕事をして、夜は寝ることがごく自然な流れなんだよなあと感慨深く、胸の裡で呟く。
第2章「ゴートゥーヘル」

「わぁっ」

 目の前をイエローキャブが猛スピードで横切る。僕は思わず声を出した。辺りは日本人はもとよりアジア系の人の姿は皆無だ。みんな化け物のような図体の黒人、筋肉質な角刈りの白人、どいつもこいつも僕を追い掛けてくる。僕は逃げる。そいつらから逃げるために走る、走る。

 子供や女は道路脇で事のなりゆきを息を潜めて見守っている。映画でなら何度も見た事のある風景でもあるような気もするし、よく考えると元々ここで生まれ育った様な気もしてくる。

 突然、全力疾走する僕の行く手を阻むように道路の排気孔から水蒸気なのか煙りなのか、判然としないグレーの気体が天へ向けて吹き上げた。僕はそれをよけようと思ったが、日頃の運動不足がたたり、足がもつれて道路脇に転がるようにこけてしまった。不思議と痛みは感じない、それどころか、快感すら感じる。ふと顔を上げると、子供達が笑いながら何か僕に語りかけている。

「ゴートゥーヘル」「ゴートゥーヘル」「ゴートゥーヘル」「ゴートゥーヘル」

 ゴートゥーヘル…?地獄へ落ちろ?穏やかでないこの状況を把握するには、子供達の表情と言動のギャップが強すぎて間抜けな位に時間を要した。

 ワンテンポ遅れはしたが、僕は自分が冗談なしに泣き顔になっている事を自覚しつつ、再び走り始めた。

「冗談じゃない」

「誰か助けてくれー」

自分の叫び声だけが辺りにこだます。

 不思議なことに先程から全力疾走しているのにもかかわらず、肉体的な疲労は感じない、ただ精神的な疲労はピークを超えて、絶望的なまでに絶望している。ただ、厳つい追っ手が姿を消して、自分が逃げているその対象を自分でもはっきりと自覚せずに脅迫的概念のもと、足の筋肉をフル稼動し続けている。

「誰か助けてくれー」

意識が身体を抜け出し、ひとり歩きならぬ、ひとり全力疾走し始めた。

 

 ピンポーン、ピンポーン

「横井さん」

「ん…あ…」

「横井さん〜」

「はっはい」

 ベッド横にある机の上、食いかけで放置されているコンビニ弁当のラベルにプリントされている【のり弁】の三文字を5秒ほど凝視し、ふと我にかえった、というよりは目覚めた。

「横井さんいらっしゃいます?」

「はい、います」

僕の部屋の前で誰かが僕を呼んでいるのだ。先ほどのわけの分からない悪夢はなんだったんだろうと考え、頭を掻きながら玄関へ向かった。

 玄関の覗き窓から、相手を覗き込み、チェーンロック越しに声を掛ける。

「どちら様?」

「隣にこしてきた森と申します」

「ちょっと、まって下さいね」

と、ドアの施錠を外し、玄関の鉄のドアを開ける。爽やかな外気が部屋の中へ入り込む、悪夢をみた直後でもあるせいか穏やかな気持ちがふと込み上げてくる。

 そこに佇んでいたのは、30歳前後のスーツの似合う仕事の出来そうな男性だった。

「どうも、おやすみのところすみません。隣にこしてきました森と申します。これ、つまらないものですがお使いください」

「あっ、ありがとうございます」

「これから、どうぞよろしくお願いします」

そう言うと特に世間話しをするわけでもなく隣に引っ越してきた男は自分の部屋に戻って行った。僕の手の中にあるのは、決して高くないギフト用のタオルのセットか何かではないかと寝ぼけて回転数の落ちている頭で思考を巡らしながら、ドアを閉めた。

 僕の住んでいるアパートは六畳一間の安アパートだ。誰がバカにしようともここが僕の活動拠点であり城である。世の中では格差社会だなんだっていってるけど、所詮そんなのって大人が勝手に定規を人の人生にあてて、自分達の尺度で短いだの長いだのっていってる戯言に過ぎないんじゃないのかな。人間なんて所詮は自己満足出来なきゃ悲しすぎるでしょ。その大人達のいう格差社会で上位に位置付けされる人たちのいったい何割が自分に満足できているんだろう?僕は格差社会の底辺にいるのかも知れないけど、自分の城、新しくハリのある生活、小さな恋心、日本国憲法という名の自由がある。文句がないぐらいに満たされているんだ。ただ、このまま歳を重ねて行くのは本望ではないし、何か目標を探す旅に歩みだしたって感じが、今の僕の立場かな…。なんて、誰かに言うではなく、一人で思いにふけった。

 今日は一週間振りの休みだ。不意の来客で昼前に起きてしまったが、今日の様なアルバイトのない日は夕方ないしは夜まで寝ている事がほとんどだ。

 疲れと忙しさにかまけて部屋は散らかり放題だ。まずやらなければいけないのは、足の踏み場もないこの城を例えば、女の子でも呼べる程度までに片付けることだといい聞かせるが、あっというまに夕方になり、日が沈むのと同様に気分も沈み、掃除の事などどうでもよくなり、最近買ったロックのCDを音を絞り何度も何度も聴きいった。

 

 ふとオーディオの表示するデジタル時計を確認すると夜の10時30分をまわっていた。どうやらロックを子守唄代わりに寝入ったようだ。さすがに何もしていなかったが空腹を訴える合図が腹の中腹辺りから聞こえ始めていたので、あまり見ないテレビのスイッチを入れ、番組音声をBGM代わりに夜飯を作ることにした。

 冷蔵庫を乱暴に開くと、卵が目に入ったので、この前買っておいた永谷園のチャーハンの元で簡単にチャーハンを作る事に決めた。チャーハンの元の袋には、サラダ油で調理をすると手順の中に指示してあるが、これをゴマ油にすり替えると、味もこれまた絶品にすり替えられる。

 淡々と調理をすすめていくと、BGMであるテレビの中のキャスターが聞き慣れた地名を読み上げ、そこで殺人事件が起きた事を伝えていた。キャスターの表情は堅く、陰があり、視聴者である僕も感情移入せざるえなかった。しかし、次の話題はスポーツのしかも日本のスター選手がアメリカの大リーグで大活躍をしている事を伝えるニュースだった。キャスターはプロ根性とでも言うべきか、全く別の表情で視聴者へ日本人選手の活躍を伝えた。

「何かが麻痺してるのかな」

別にそのキャスターを責めるとかではなく、ぽつりと独り言を発してしまった。
第3章「携帯ストラップ」

「あのエンディングはないよ、悲しすぎるよ」

「そうかな〜、僕は感動したけどなあ」

と、つい最近レンタル開始になった映画の内容についてお互いの意見を交え、会話を楽しんでるその相手は、憧れのあのひとみさんである。

 お互いの距離を縮めるきっかけになったのが映画の話題であった。数日前、商品として陳列されている映画のDVDパッケージを見るともなく見ていた僕をひとみさんが見つけ、話を切り出した、

「映画好きなの?」

「ちょっとだけ」

「そっか、何系が好きなの?」

「特に好きなジャンルはないけど、時間潰しにはもってこいでしょ」

とひとみさんの質問を僕ははぐらかした。しっ、しまったと心の中で舌打ちをした。なんで僕はもっと気の利いたセリフを言えないんだろうかと自分を責め、うつむいた。こんな発言をしてしまった裏側には、映画に対する博識度合いをひけらかせない照れが含まれていた。

 ただ、ひとみさんは僕の発言に対して全く動じずに、自分の好きな映画、最近観た映画の話題、好きな映画音楽を着メロにしている事などを並べ、話を一方的に続けた。話しの内容からひとみさんがミーハー的映画志向の持ち主だということがわかった。好意をもった相手の志向がどんなに悪かろうがそれはそれでありだなと納得出来てしまうところが不思議だ。

「うそー感動した?シンくんはきっと感性が鋭いのかもね」

「そんなことないですよ。感じ方なんて人それぞれですよ」

「そう、人それぞれ…」

「…」

「…」

どっ、どうしたのひとみさん?なんか僕マズイこと言った?

「実は…」

とひとみさんが先ほどまでとは違うトーンで話し始めた、

「実は最近、友だちの友子が軽いストーカーにあってて、いろんな人に相談しているみたいなんだけど、私以外の人は取り合ってもくれないんだって。それって友子の思い過ごしでしょとか、たまたま何度かはち合わせただけでしょとか」

とひとみは自分の事のように顔をうつむかせ、表情を堅くした。

 ひとみさんと友子さんとは幼稚園からの幼馴染みで、今でも仲良く遊ぶ友だちらしい。ただ、話を聞いていく中で二人はオセロの白黒のような対照的な存在で、例えてみるならば、ひとみさんは10人の男がいれば間違いなく9人の男が好意を持つであろう容姿を備え、活発な性格、一方の友子さんは今まで彼氏が出来た事もなく、引っ込み思案な性格。僕なんかが余計なお節介かもしれないけれど、お互いの関係がうまくいっているのが不思議なぐらいの二人である。

「友子は確かに見た目は良くないかも知れないけど、芯のある子なんだよ」

ひとみさんは僕に友子さんの短所を上回る長所を伝えたいつもりなのだろうけど、今イチ伝わってこない。

「そんな友子に好意を抱くストーカーの存在をみんな当然のように否定しているけど、私は友子自身の本当の良さを知っているから、好意を抱くストーカーの気持ちもわからなくはないけれども、でもそれ以上に友子がかなり精神的に追い詰められているから、私は友だちとして何とかしてやりたいんだ」

 僕はひとみさんが『人それぞれ』という僕の言葉に反応したことを思い返した。ひとみさんはきっと、世間のほとんどの人が無意識の内に自分の尺度、価値観にて他人のことをみているという事を忌み嫌い、その紛れもない事実への憤りを僕の何気ない発言が代弁してしまったんではないだろうかと思い当った。

友子=不細工=男が寄り付かない

ひとみさんの熱弁によって僕もこんな画一的な方程式は決して当てはまらないと信じて疑いようがなくなった。

 ふと、興味本位が身体中にわき上がってきた。それは、友子さんの容姿である。僕は次の瞬間、

「友子さんの写真とかってもっています」

「あるよ」

「見せてください」

ひとみさんの動作が一瞬止まった。僕はそれを見逃さなかった。

「ちょっとまってね」

ひとみさんが事務所に置いてあるバックから携帯を取り出してきて、操作し始めた。原色のかわいらしい携帯ストラップが前後左右に揺れる。僕は店内に注意を向けつつ、その携帯ストラップを見るともなく見ていた。

「あっ、これこれ、一緒にカラオケにいった時の」

と僕の顔の前に携帯の画面を差し出す。画面には4人の若い女の子が映っていた。

「どの子?ですか?」

「右から2番目の子」

「…」

幸が薄いという言葉がぴったりとくる顔がそこには映し出されていた。薄い、とにかくすべてが薄い。目、鼻、唇、どれもがはかなく配置されていた。ただ唯一薄くないのは肌である。思春期にニキビが酷かったのか表面がクレーターの様にでこぼこになっていて、肌が白いのだけれども遠目で見る限りではまだらにくすんで見える。

「この子が友子さんですか」

「そうだよ」

「…」

 ドン。

突然、レジカウンターに買い物カゴを置く音が響いた。一瞬、助かったと思った。あんな顔を見せられて一体なんてコメントしたらいいのか分からなかったからだ。

「いらっしゃいませ」

客の顔を見ることなくレジを打ち始める。

「横井さん?」

突然、目の前の客から発せられた声に戸惑いぎみに手を止め、顔を上げた。そこには先日、隣に引っ越してきた隣人が立っていた。

「あっ、どうも」

僕はその隣人の名前すらも覚えていない。

「こちらで働かれていたんですね」

「はい」

と愛想なく答え、レジ打ちを再開し、会計を済ませ、もう少し話をしたそうな隣人を遮るように、

「ありがとうございました」

「あっ、じゃあまた」

ひとみさんが無表情で

「知り合いの人?」

「アパートの隣人です」

ひとみさんは僕に質問しておきながら、全く聞いてない様子で僕の隣人の背に視線を走らせていた。


第4章「駐車場の古いアスファルト」

 それから二週間ぐらいがたった頃だっただろうか、ようやく聞き出すことが出来たひとみさんの携帯電話の番号を表示、点灯して、流行りのロックミュージックを鳴らし、僕の携帯が机の上で騒がしく僕を呼んでいる。

「おっ」

思わず声を出してしまった。気分は最高潮に達していたが、深呼吸をして携帯をまるで高価な特殊機器を扱うようにして持ち上げ、強く握り、受話ボタンを親指で強く押した。

「もしもし、ひとみです」

ひとみさんの声は慌てて、巻くし立てる様な感じに聞こえた、心無しか震えているようにも聞こえた。

「こんばんは、どうし」

僕の言葉を遮るようにひとみさんが

「友子が大変なの」

その声は叫び声に近かった。

「刺された、血がいっぱい」

語尾が聞き取りにくく、一瞬何をいっているのか分からなかったが、穏やかでない状況は伝わってきた。

「今、どこ?」

僕はひとみさんが聞き取りやすいようにハッキリとした発音で質問した。

「…」

返事がない。

「もしもし」

「鷹山町のローソン近くの喫茶店の駐車場」

その場所は僕のアパートから目と鼻の先の距離にある場所だと、とっさに判断し次の瞬間にはアパートの玄関の方へ足を向けた。着の身着のままとは今の自分の事を言うのだろうとなぜか自分の置かれている状況を他人事のように客観視している自分に驚いた。ドアを閉めて一目散に走りだした。走っている途中、ふとドアの施錠を忘れていた事に気付いたが、今現在の優先順位からしてみればドアの施錠は下位に位置している事に思い当たり、施錠に関しては走りながら、意識の中から投げ捨てた。

 現場にはすぐに着いた。目の前には血だらけになった女の子とそれを健気に支えるひとみさんの姿。そして少し離れた所に野次馬らしき2人の男性がどうすることも出来ずに立ち尽くしていた。

「何があったんですか?」

僕は興奮して、叫び声にちかい声でひとみさんに質問した。ひとみさんは震えるばかりで、こちらの質問に答えることすら出来ない。救急車はすでに呼んであるという事を野次馬の男性から聞かされた。

 友子の腹部辺りからは止まることのない血液が溢れだし、駐車場の古いアスファルトを黒光りさせている。ふと足元に落ちているひとみさんの原色ストラップが付いている携帯に目がいった。当然、現場の凄惨な状況と同じく血だらけだ。

 ふと、よくこの状況でこの僕に電話する事が出来たものだと感心している反面、行き先の見えないこの状況をどうすることも出来ない自分に対して怒りが込み上げてきて、叫びたい衝動にかられた。


第5章「パトライト」

  今でも目を閉じると6日前の救急車の赤いパトライトが本物のどす黒い血液よりも誰もが連想する鮮やかな血液らしい真っ赤な色彩だったことが思い出される。まあこんなのは気分の良いものではないので忘れたいものだが、多分一生、頭の中にこびりついたまま生きて行かなければならない事をなんとなく感じた。そんなことを考えていると突然、悪寒が走った。

 友子さんは6日前のあの夜、総合病院の救急外来の処置用ベットの上で短い人生に終止符をうった。死因は失血性ショックだった。

 お通夜では友子さんの顔をまじまじと見つめた。想像していたよりも綺麗で安らかな顔であった。参列者たちはみんな沈痛な面持ちでまるで死体のようだった。

 お通夜で今まで知らなかった事実を耳にした。それは友子さんこと川村友子が僕が働くコンビニのオーナーの愛娘だったということだ。バイト仲間によると僕が働き始める数カ月前までその店で働いていたそうだ。ひとみさんやオーナーからはそんな話を聞いた事もなかったし、友子さんの存在自体、こうして事件がなければ気にもとめなかったに違いないと思い、ひとみさんにあらためて事実を確かめる事はしようとは思わなかった。ただ、これは事故ではなく殺人であり、ただ事ではないし、少なからず、事件の断片に関わってしまった僕はこれから否応無しに警察へ出向き証言、現場検証に立ち会わなくてはならなくなる。今日もこれから、警察に出向き事件のおぼろげになった詳細を語らなくてはならない。

 ひとみさんは事件のショックから入院を余儀無くされている。面会が可能になればすぐにでも面会に行こうと胸に誓った。

 

 それから1ヶ月後、ついにひとみさんが面会可能になったということを聞き付け、総合病院に駆け付けた。花束をもって病室へ向かう僕を後ろから女性が声を掛けてきた、

「すみません、お待ち下さい」

振り返ると、風格のある看護婦、多分婦長さん?が生花を病室に持ち込む事は禁止されているというような内容を親切丁寧に説明してくれた。

 僕は快く、花束を婦長さんに手渡し、ひとみさんの病室へ向かった。

「お久しぶり」

「あっ、シンくん」

ひとみさんが泣き笑いの表情になって頬を赤らめた。

「もう身体大丈夫?」

「うん」

「そっか、よかった」

僕はそういうとベットの側においてあるスツールに腰をおろし、元気づけるために用意した他愛もない話題を一方的に喋った。それは保身に近い行動だ。ひとみさんの悲しみの度合いは僕なんかでは到底はかり知れない事が分かり切っていたし、二人っきりで質疑応答をしてしまってはきっと暗い方へ話題が向いて行くとの判断から事前に他愛もない話題を用意して見舞いに臨んだ。ひとみさんの表情は事件以前となんら変わってないような気もするし、大きな悲しみを乗り越えて生きる強さを体得したようにも見えた。

 一通り僕が話しを終えると短い沈黙が訪れた。そして、ひとみさんが

「私、犯人の顔みたのよ」

低く、確信をもった声で言った。

「…」

「私は絶対に犯人を許さない」

「…」

そこへ、先ほどの婦長さんが笑顔でやってきて

「ひとみちゃん、明後日退院決まったみたいね」

「…そうなんですよ。いろいろお世話になりました」

表情が一変し、僕はホッとした。このタイミングを見計らって今日は撤収しようとひとみさんに声を掛ける

「じゃあ退院したら食事を御馳走するんで時間をつくって下さいね」

「え、もう帰るの」

「バイトがあるんで」

「そう」

そう言った、ひとみさんの顔が少し寂し気だったのを僕は見逃さなかった。こんな状況で理不尽かも知れないが、何かしらの優越感を感じた。


第6章「強い空腹感」

 今日は週に一度のゴミ捨て日。早朝に起き、溜まりにたまったゴミ達を分別し、アパート前のゴミ置き場にジャージにゴム草履という格好でゴミ袋を抱えて出ていき、たかるカラスを手で追い払いながら緑の防御ネットの中にゴミ袋を投げ入れた。

「おはようございます」

ふと後ろから男の人に声を掛けられた。振り返ると隣人の男性だった。ここしばらく会っていなかったが、いつもと変わらず身なりが整っていた。ただ、いつものスーツではなかった。

 朝の日ざしが気持ちよかったので、いつもなら挨拶だけで終わってしまうやりとりだったが今日は、

「おはようございます、今日はデートかなにかですか?」

と一歩突っ込んだ質問をぶつけてみた。

「…まあ、そんなとこです」

すると照れながら、会釈をしてそそくさと自分の部屋へ戻って行ってしまった。あの人は意外と照れ屋さんだと思いながら、一体あの人はなんて名前だったけと思いながら朝日の方へ向いて伸びをしてみた。

「あ〜」

のどかな声が路地一面にこだました。遠くの方でおじいちゃんがこちらを振り返った。

 

 自分の部屋の鉄のドアを開けた瞬間、携帯の着メロが爆音でなり始めた。僕は駆け寄り、着信相手を確認して受話ボタンを押す。オーナーからの電話だった。

「横井くん、今日仕事に来れる?」

用事など何もなかったけど一瞬、間をおいて

「はい、大丈夫ですよ」

「あっそう、よかった。実は城くんが昨夜、通り魔にあって軽傷を負ってしまってね、今日のシフトに欠員が出たもんだから、すまんね。怪我の方はたいしたことないみたいだから、気にしないでもいいよ」

通り魔?、オーナーが余りに抑揚のない声で喋ったので聞き流すところだったが、とても大変な事態ではないかと感じた。だた、オーナーも愛娘を失って、他人の事など気に掛けている余裕がないのもわかるから、オーナー自身のそんな状態がとても哀れに感じ、そして、

「僕に出来ることなら、なんでも任せてください」

と僕は虚勢をはった、

「おっ、たのもしい、じゃあ、夜9時からお願いね。それと夜道は物騒だから気を付けてきてね」

そう一方的に喋ると電話が切れた。

プー、プー、プー、プー、

僕はしばらく携帯を耳にあてたままの格好で立ち尽くした。よくよく考えると、物騒な事件がここのところ多すぎやしないかと眉をひそめるも、腹がなり、強い空腹感に漠然とした不安感は簡単にかき消されてしまった。


第7章「絶体絶命」

 夜の8時を回ってアルバイトへ行く身支度をしていると、携帯にメールが届いた、

「ひとみさんからだ」

思わず、呟いてしまった。

 

おひさしぶり、シンくん。私は友子を殺した男の正体を突き止めました。友子は私のかけがえの友だちで、その友だちを奪われたこの私の怒りは自分でも驚く程、日に日に増幅されてきました。シンくんにはこれから迷惑を掛けてしまうかも知れないけれども、どうか、許して下さい。私は私のやり方で決着を付けます。

 

そこでメールは終わっていた。これは一体なにを意味しているんだろうか。

放心状態、まさに今の僕はそんな状態だ。僕はとんでもない状況に立たされている気分になった。血の気が引き、気持ち悪くなり、急いで流しへ向かい、コップに水を汲み、一気に飲み干した。深呼吸して呼吸を整え考えた。

 ひとみさんに電話をしなきゃと直感が命令を下した。

 携帯電話を探す、気が動転しているためか、先程メールを見るのに使っていた携帯が見当たらない、ベッドの下、タンスの上、オーディオラック横、テレビの上、ありとあらゆる場所を探すが一向に見当たらない。一旦動作を止め、冷静に先程までの行動を思い返してみる。

 突然、隣人の部屋の方から

【キャー。ドン。ガン。ドンドン。ドスン。】

尋常ではない、何かが破壊される様な音が響いた。だが、意識は携帯電話を探す事に注がれているせいもあって、その時は気にもならなかった。次の瞬間、

「あった」

つい大声を出してしまった。携帯電話は上着のポケットの中に潜んでいた。興奮状態にあったのか携帯電話を持つ手は小刻みに震えていた。携帯電話のアドレス帳から中山ひとみの名を検索する。名前を見つけ受話ボタンを押す…、表示されたのは中條武の番号だった。小刻みに手か震えているためか、押し間違えたのだ、気を取り直してもう一度、

受話スピーカーからは規則的な呼び出し音が流れる、神経を聴覚に集中する。ふと、なにやら小さな音量ではあるが、ひとみさんが大好きな映画で流れる曲がどこからともなく聴こえてくる。幻聴?いや幻聴なんかではない。コールしたまま携帯を耳から離すと、曲のディテールまでがあたかもラジオで聴いているような感じで聴こえてくる。音の聴こえる方へ耳を向ける。隣人の部屋?壁に耳を押し当てる。はっきり聴こえてくる。

 とっさに、携帯の受話終了ボタンを押した。すると、その映画の曲も鳴り止んだ。まさか。悪寒が走る。

 

ドン。ドン。ドン。ドン。ドン。ドン、隣人が部屋を歩く音が聞こえる。

 

ガシャン、隣人が鉄の玄関を開け。

 

カツ。カツ。カツ。カツ。カツ、隣人が渡り廊下を歩き

 

ピンポーン、ピンポーン、隣人が僕の部屋の呼び鈴を押している。

 

ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。

心拍数は尋常じゃないぐらい急上昇して、頭から血が吹き出そうだった。

 

絶対絶命。誰か助けてー。お母さん助けてー。

 

ピンポーン、ピンポーン。ガシャ。金属の冷たい音が僕の部屋に鳴り響いた。

「なっなんで」

僕は泣き顔になりながら、情けなく呟いた。動けなかった。隣人の男は血眼でこれ以上は吊り上がらないだろうというぐらに目尻を吊り上げ、無言で僕の前に仁王立ちになった。言葉は発されなかった。隣人はかえり血を浴びており、右手には刃渡りの長い包丁を握っていた。その包丁が光を反射して、これ以上ないぐらいに僕を威圧してくる。僕は当然、戦意なんかとっくに喪失し、しまいには失禁をしていた。

次の瞬間、

「森、待て」

怒号が僕の部屋に響いた。僕の意識はここまでで終わっている。

 

意識を取り戻したのは、次の日の昼前、病院のベットでのことだ。

 昼すぎ、隣人の森剛士は殺人および不法侵入の罪により警察に逮捕されたらしいと、僕が意識を失った後の出来事をかいつまんで看護婦さんが教えてくれた。

ひとみさんはいったいどうしたんだろう、それだけが気になるがどうも恐くて聞きだせないでいた。

 森が殺人を犯にした動機は一言でいえば逆恨み。実はこのところ、この界隈で起きていた殺人や通り魔事件は全て森の犯行だった。僕の働くコンビニの対角線上に店鋪を構えていた今はもうないライバル会社のコンビニのオーナーが森その人だったらしい。テレビで報道されていた殺人事件の被害者も元は僕の働くコンビニで働いていた。友子さんはストーカーにではなくやはり逆恨みによる犯行の餌食になっていた。城、ひとみさんも同じく同様に逆恨みの餌食に。

 一週間後、僕は退院した。心に傷は負ったままだが、そんなことはお構い無しに世の中は回ってるし、この地球はさらに凄いスピードで回ってる。おちおち感傷に浸ってる暇なんか僕にはない。

 ひとみさんからの着信はあの日を境になくなった…。

 半年後、ヒゲ面こと、城多門は自殺した。理由は恋人を失った傷から立ち直る事が出来なかったようだ。

 

 そして、僕は真実の残酷さを味わった。